ヴォーリズの年譜
肖像 (1880~1964) |
年代 | 年齢 | ヴォーリズについて |
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明治13年 (1880) |
0歳 | 10月28日、米国カンザス州レブンワースで、父ジョン・ヴォーリズ、母ジュリア・ヴォーリズの長男として生まれる |
明治15年 (1882) |
2歳 | この頃から両親に伴われて礼拝に出席し、後日洗礼を受ける | |
明治21年 (1888) |
8歳 | 生来病弱であったため、一家そろってアリゾナ州フラッグスタッフへ移住 | |
明治29年 (1896) |
16歳 | コロラド州デンバーに転居 | |
明治33年 (1900) |
19歳 | イースト・デンバー高校卒業、コロラド大学入学。YMCA活動開始。 | |
明治35年 (1902) |
21歳 | カナダのトロントで開かれた学生宣教義勇軍の大会に出席。テイラー女史の講演に感動し、外国伝道への献身を決意する | |
明治37年 (1904) |
23歳 | コロラド大学卒業。宣教のため、ニューヨークの国際YMCA本部に就職先を依頼 | |
明治38年 (1905) |
24歳 25歳 |
サンフランシスコ港から出港 (1月10日) 2月2日、近江八幡に到着。滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)の英語科の教師となる。 |
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明治40年 (1907) |
26歳 | 2月8日、ヴォーリズ宅にて最初のバイブルクラスを開く | |
明治41年 (1908) |
28歳 | 京都三条YMCAの一室で、建築設計監督事務所開業(後にヴォーリズ建築事務所) | |
明治43年 (1910) |
30歳 | いったん帰米し、建築家のレスター・チェーピンを伴って帰国、吉田悦蔵と3人でヴォーリズ合名会社設立 | |
大正7年 (1918) |
37歳 | 結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム、現ヴォーリズ記念病院)を開設 | |
大正8年 (1919) |
38歳 | 子爵・一柳末徳(ひとつやなぎすえのり)の三女、満喜子と結婚 | |
大正9年 (1920) |
39歳 | ヴォーリズ合名会社を解散し、W・M・ヴォーリズ建築事務所と近江セールズ株式会社を設立。メンソレータム(現・メンターム)の輸入販売を開始 | |
大正11年 (1922) |
41歳 | 大同生命・広岡社長夫妻と共に建築視察旅行 『A Mustard-Seed in Japan』を出版 |
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大正12年 (1923) |
42歳 | 『吾家の設計』を出版 | |
大正13年 (1924) |
43歳 | 『吾家の設備』を出版 | |
昭和2年 (1927) |
46歳 | 軽井沢会の副会長に選出される | |
昭和5年 (1930) |
49歳 | 母校コロラド大学よりLLD(名誉法学博士号)を受ける。また、同志社大学社友に推薦される | |
昭和9年 (1934) |
53歳 | 近江ミッションを近江兄弟社と改称 出版事業部を独立させ湖畔プレス社を設立 |
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昭和11年 (1936) |
55歳 | 大阪中央放送局で建築についてラジオ放送 | |
昭和16年 (1941) |
60歳 | 日本国籍取得、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称 | |
昭和20年 (1945) |
64歳 | マッカーサー元帥と近衛文麿元首相との会談実現のために活躍 | |
昭和22年 (1947) |
66歳 | 昭和天皇よりねぎらいの言葉をかけられる | |
昭和26年 (1947) |
70歳 | 自伝『失敗者の自叙伝』の草稿を起筆、昭和32年まで『湖畔の声』に連載 | |
昭和29年 (1951) |
74歳 | 社会公共事業に対する功績により、藍綬褒賞を受ける | |
昭和32年 (1957) |
76歳 | 7月、軽井沢でクモ膜下出血のため倒れ、近江八幡の自宅に帰り、療養生活に入る | |
昭和33年 (1958) |
77歳 | 近江八幡市名誉市民第1号に推される | |
昭和35年 (1961) |
80歳 | 日米修好通商百周年に功労者として顕彰を受ける | |
昭和36年 (1961) |
81歳 | 建築業界における功績で黄綬褒章を受ける | |
昭和39年 (1964) |
83歳 | 5月7日、7年間の無言の病床生活を終えて昇天。正五位勲三等瑞宝章を受ける。5月16日、近江八幡市民葬と、近江八幡兄弟社葬との合同葬となり、遺骨は恒春園に眠る |