ヴォーリズの建築

建築作品(近江八幡市内)
教会建築
学校建築
その他の主な作品

事務所の様子事務所の様子

 明治41年12月、ヴォーリズは建築設計監督事務所を開き、アマチュア建築家として活動を始めました。2年後には米国人建築技師レスター・チェーピンを加えてヴォーリズ合名会社をを創設し、以来大正中期から昭和初期にかけて、米国人建築家を含め2~30人建築技師を擁した建築事務所へと発展させています。 建築作品にはキリスト教会、とりわけ米国ミッションに関係するものが多く見られますが、一般の商業、オフィスビルにも際だつものがあり、洋風住宅や軽井沢の山荘住宅なども設計しています。また、「吾が家の設計」などの著作によって広く住宅の近代化に寄与したと考えられています。 ヴォーリズ建築は、当時のアメリカ建築の流れをひいて種々の建築様式が応用されたものとか、様式のない建築と言われていますが、彼の建築には様々なところで日本の気候風土や住習慣に適合させる工夫がなされています。そこに共通しているのは、実用性に重きをおき、簡潔ではあるけれども豊かなデザインと親しみやすく包容力のある空間を有したものとなっています。ここに依頼者の求めに応える奉仕の精神に貫かれたヴォーリズ建築の特質があります。

 

建築作品(近江八幡市内)

作品名、および作品の概要。

近江ミッション住宅(大正3年/1914)右側北よりヴォーリズ邸、ウォーターハウス邸、吉田邸が並ぶ

近江ミッション住宅

米国の郊外住宅に多いコロニアル・スタイルと呼ばれる建築様式の住宅である。大正8年(1919)に結婚して以来、ヴォーリズ夫妻は池田町の洋館住宅に住んでいた。現在、池田町はヴォーリズの洋風住宅街として多くの観光客が訪れている。

 

ヴォーリズ記念館 「旧ヴォーリズ夫妻邸(昭和7年)」 

ヴォーリズ記念館

ヴォーリズ夫妻が後半生最後まで住んだ住宅。現在はヴォーリズ記念館(一柳記念館)となっている。

近江兄弟社学園 (昭和6年)左が教育会館、右は旧幼稚園舎(現:ハイド記念館)

近江兄弟社学園

メンソレータムの創始者A・A・ハイド氏の寄付を受け、園舎が建設された。満喜子夫人が専門である幼児教育を活かし、自宅で子ども達を集めたプレイグラウンドを始めてから約10年後である。

近江療養院 現ヴォーリズ記念病院 左が旧本館(1918)、右は新生館(1935)

近江療養院

素朴な建築であるが、美しい環境と自然と共生する療養施設としての在り方に注目すべき特徴を持っている。アメリカ人、ミス・ツッカーの5,000ドルの寄付が基金となったと言われている。

希望館、旧五葉館(大正7年/1918)

希望館、旧五葉館

現ヴォーリズ記念病院の敷地の一角にある結核患者の療養所である。各室は日当たりが良く、患者のプライバシーとコミュニケーションに対する工夫は現在の病院建築にも活かされるべき考え方です。

旧八幡郵便局(大正10年/1921)

旧八幡郵便局

小品ながら初期の作品としては注目すべきものがある。現在は玄関部が失われた状態であるが正面妻壁を曲線状に立ち上げたデザインには、後年ヴォーリズ建築で広く活用されるスパニッシュ・デザインの片鱗が早くに現れたものである。現在地元の団体(ヴォーリズ建築保存再生運動「一粒の会」)が管理運営を行っている。

八幡商業高等学校 (昭和13年/1938)

八幡商業高等学校

新校舎は鉄筋コンクリート造りのモダンなもので、かつてヴォーリズがよく用いた歴史的様式を払拭した手法は、当時主流となっていた機能主義的デザインによるが中央部を青磁色タイルを使い垂直のルーバー状にデザインしたシンボリックなものだった。八幡商業高校は当時24歳のヴォーリズを英語教師として迎えたところであり、この設計にはヴォーリズも格別の思いを寄せたものと考えられる。

近江ミッションは大正から昭和初期にかけて琵琶湖周辺の町にキリスト教の伝道を繰り広げました。最盛期には近江ミッションの支部として近江野田、米原、今津、堅田、水口、八日市、愛知川、能登川の町々に基督教会館が設けられ、八幡のYMCA会館を要にした一種のミッション・ネットワークを形成していきました。

 

教会建築

旧八幡教会(大正13/1924)

旧八幡教会

 

堅田基督教会館(昭和5年/1930)

堅田基督教会館

愛らしいハーフティンバーの妻飾りと鐘塔を有する特徴をもつ。

今津基督教会館(昭和8年/1933)

今津基督教会館

スパニッシュ・ミッション様式を想わせる白い大きな妻壁を正面にして、赤レンガをあしらった門構えがよく似合う。

水口基督教会館と牧師館(昭和5年/1930)

水口基督教会館と牧師館

瀟洒な洋風住宅のような教会である。

神戸YMCA会館(第二期)(大正11年/1922)

神戸YMCA会館(第二期)

第一期が東洋風のデザインを取り入れたのに対し、第二期は、ルネッサンス様式の建築で、赤レンガ積みの重厚な壁面と頂部の古典的な軒飾りと、一階上部にのコーニスに特色のある、明快にして荘重な建築である。

大阪教会

大阪教会

明治7年に創設された大阪で初めてのキリスト教会である。大正7年に新会堂建設が決定され、ヴォーリズのもとで3年がかりで設計された。阪神淡路大震災で破損したが、日本建築学会等の支援により復旧されている。

 

学校建築

関西学院大学(昭和4年/1929)

関西学院大学

ごく穏やかな斜面の中央に時計台付きの建物を配置し、その前面にキャンパスの中心的な広場を設け、それを取り巻いてスパニッシュ・ミッションスタイルの白亜の校舎が並べられている。 

東洋英和女学院(昭和8年/1933 現存せず)

東洋英和女学院

明治に木造学舎が建設されていたが、学院創立50周年を控えて新本館の建設が計画され、同窓会を中心に新校舎建設の募金活動などの末、ヴォーリズに設計が依頼された。
1階が半地階の4階建てで最頂部にはスパニッシュ瓦が浅い軒を見せ、壁には星形レリーフや、浅いバルコニーを備えたスパニッシュアーチ窓が華やかさを添えている。

同志社大学アーモスト館

同志社大学アーモスト館

新島襄が学んだアーモスト館にちなんで建てられた学生寮である。ヴォーリズは館内に来客用としてタバコの灰皿が置いてあるのを見ただけでも極めて不快な顔を見せたという。

神戸女学院(昭和8年/1933) 

神戸女学院

神戸女学院は、満喜子夫人の母校である。阪神淡路大震災により一部の校舎が解体され、新築されている。ヴォーリズがアメリカから持ち帰った日本で初めての2台のオルガンの内、一台は現在も神戸女学院礼拝堂で使用されている。

明治学院礼拝堂(大正5年/1916) 

明治学院礼拝堂

ゴシックスタイルの礼拝堂である。大正8年6月3日に、ヴォーリズはここで一柳満喜子と結婚式を挙げている。この写真は増築後のものである。

活水学院(大正15年/1926) 

活水学院

明治12年(1879)に開校した九州でも屈指の伝統あるミッションスクールである。
鉄筋コンクリート3階建ての上に、屋根窓をともなう急勾配の屋根を掛け、校舎出入り口を八角形の塔体としている。全体はゴシック調である。設計を担当したのは、大正6年までヴォーリズ事務所で活躍したJ・H・ヴォーゲルで、その後彼が香港で建築活動を行っている時に協力して設計されたものである。

 

その他の主な作品

大丸百貨店心斎橋店(大正11年~昭和8年/1922~1933)

大丸百貨店心斎橋店

現在の建物の主要部は4期に分けて建設されている。ファサードの中央には大丸のシンボルである孔雀をモチーフにしたアーチを冠した玄関が設けられている。この建築の最大の持ち味の一つに、店内随所にちりばめられた電飾がある。

旧大同生命ビル(大正14年/1925)

旧大同生命ビル

設計期間中に関東大震災が起こり、より慎重な耐震的配慮を加えられてこのビルは完成した。華麗なデザインだけでなく、エレベーター、空調などの近代設備を備え、当時屈指のオフィスビルと言われた。

主婦の友社、現お茶の水スクエア(大正14年/1925)

主婦の友社、現お茶の水スクエア

関東大震災復興期の耐震耐火建築のさきがけ的建築である。現在の建物は当時の外観デザインを活かして再建されたもので、中にヴォーリズホールが設けられている。

矢尾政、現東華菜館(大正15年/1926)

矢尾政、現東華菜館

ビアホールであったが、酒を飲まないヴォーリズにはそのことが知らされなかったので、ヴォーリズは最後まで西洋料理店だと思いこんで設計したと言われている。建物の内外は入念に装飾され東洋趣味的な図柄や「海の幸、山の幸」などオリジナリティに富んだ図柄が施され、見る楽しみにつきない建物である。

下村邸、現大丸ヴィラ(昭和7年/1932)

下村邸、現大丸ヴィラ

もと大丸社主の下村正太郎邸として計画されたものである。ヨーロッパの建築、美術に通じていた下村社長は、自邸の設計には英国の中世様式採用するよう指示していたが、ヴォーリズも百貨店計画で下村社長の趣味を心得ており、英国の伝統様式であるチューダースタイルの館を完成させた。別名「中道軒」とも呼ばれている。
 

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