朝鮮人街道と本願寺八幡別院
いにしえの道-中山道・朝鮮人街道、本願寺八幡別院
京都へ、江戸へ 人の夢を運んだ街道を辿って
近江は、湖国といわれるとともに、古来、道の国でもありました。京の都へ続く天下の要所であり、「近江を制する者は天下を制す」とまで言われたのです。
近江八幡もまた、多くの道が交差する街道のまちでした。その中でも中心となったのが中山道と朝鮮人街道です。
天正年間に織田信長が開いた脇(浜)街道を、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が京都上洛時に用い、天下支配の吉道としました。後に、朝鮮通信使が江戸へ向かう道となり、朝鮮人街道と呼ばれるようになりました。
また、江戸時代に五街道として整備された中山道は、東国と京都を結ぶ道として、古くから賑わった道です。幕末には、皇女和宮の降嫁に伴う大行列が中山道を下ってゆきました。
朝鮮人街道-朝鮮から江戸へ 朝鮮通信使が通った日朝友好の道
先に述べた「中山道」とは別に琵琶湖岸に「朝鮮人街道」と呼ばれる街道があるのをご存知でしょうか。江戸時代には一般に鎖国の時代と思われていますが、朝鮮と琉球とは信を通わす外交のある国「通信の国」とし、中国とオランダとは貿易船の来航を認める「通商の国」と定めました。その朝鮮からの使節「朝鮮通信使」が通った道が「朝鮮人街道」と呼ばれ今もその名を残しております。
豊臣秀吉の朝鮮侵略以後、断絶が続いていた日朝関係の回復を願った徳川家康は、対馬藩を通じて朝鮮へ幾度と使者を送り、国交の回復に努めました。紆余曲折があったものの、慶長12年(1607年)、正式に使節を迎え入れることとなり、以後、文化8年(1811年)までの間、計12回の通信使が日本にやってきました(12回目は対馬で聘礼が行われたため、漢陽~江戸は11回)。当初の3回は回答兼刷還使(家康による国書の回答と日本に連行された捕虜を連れ帰る)でしたが、それ以降は将軍の代替わりに際しての祝賀へと変化していきました。また、外交使節のほかには文化使節的な面も持っており、学者や文人、画家や書道家たちも同行しており、少なからず当時の日本の文化に刺激を与えたと思われます。
通信使の一行はソウルを出発しプサンより海路で対馬から瀬戸内海、淀川から京都へ到着、その後は陸路で中山道・東海道を通過し江戸を目指すという行程でその長さは約2000kmに及び、その期間は往復で約1年もの歳月を費やしました。しかしながら、この長い道のりの中で「朝鮮人街道」と呼ばれるのは、不思議ながら現在の野洲町小篠原から安土・八幡を経て彦根市鳥居本までの約40kmに限られています(滋賀県内での通信使の行程は基本的には京都を発ち、大津で食事、守山で宿泊、翌日は、八幡で食事、彦根で宿泊という行程)。
朝鮮人街道の起こりは織田信長が安土城築城の際に京都までの道を結んだことによります。中山道の「上街道」に対して「下街道」と呼ばれたり琵琶湖岸を走ることから「浜街道」とも呼ばれていました。一説には、日本の狭さを隠し広く見せるため、わざと迂回し曲折した道を通行させたと言われる説があります。しかしながら、大名行列との鉢合わせをさけたことや、時には500名にも及ぶ人間の宿泊や休憩先を考えると彦根や八幡を通ることが最も適していたと考えられます。
また、関ヶ原の合戦で勝利を収めた「徳川家康」が上洛する際にこの街道を通ったことから、この縁起の良い吉道を通行させることで通信使への優遇ぶりを表そうとしたとも考えられています。
本願寺八幡別院
豊臣秀次が安土城から移築した市内随一の大寺院。1601年に徳川家康が上洛した際、宿泊所となりました。また、朝鮮通信使の昼食所で、その通信使・副使の書が今も残されています。
近江八幡市北元町39-1
電話 0748-33-2466