豊臣秀次について

まちのひとが大切に守る開祖・豊臣秀次の思いで

平和な町づくりに情熱を燃やした武将

1585年、18歳にして近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次は、信長亡き後の安土城下の民を近江八幡に移し城下町を開きました。自由商業都市としての発展を目指して楽市楽座を施行、城の防御である八幡堀を琵琶湖とつなぎ、往来する船を寄港させるなど、秀次はわずか5年の八幡山城在城の間に、商いのまちとしての繁栄の基盤を築いたのでした。若くして悲運の最期を遂げた秀次ですが、近江八幡の開町の祖として市民に慕われており、彼のまちづくりにかけた情熱は、今日、八幡堀や町並み保存運動をはじめとする歴史を活かした近江八幡のまちづくりに受け継がれています。
 

豊臣秀次(1568~1595)

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豊臣秀吉の姉・ともの子。秀吉の養子となり関白職を継ぎましたが、後に秀頼が産まれ、後継者を巡る争いにより自害させられました。八幡公園には開町の祖・秀次の銅像が建てられています。
■参考1:豊臣秀次パンフレット( ダウンロード可
■参考2NPO秀次倶楽部( http://www.hidetugu.jp

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