市内に点在するお城の紹介
市内に点在するお城の紹介
近江八幡の城について
近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。
*近江八幡市には、3つの名城が選定されています。→ 「100名城(安土城)、続100名城(観音寺城、八幡山城)」
近江八幡市内の主な城跡
八幡山城 宮内町 | 久郷屋敷 上田町 | 馬渕城 馬渕町 |
浅小井城 浅小井町 | 倉橋部城 倉橋部町 | 牧村城 牧町 |
宇津呂館 中村町 | 小森城 中小森町 | 円山城 円山町 |
岡山城(水茎館) 牧町 | 金剛寺城(金田館) 金剛寺町 | 安土城 下豊浦 |
沖島尾山城 沖島町 | 田中江城 田中江町 | 観音寺城(佐々木城) 石寺、宮津 |
沖島頭山城 沖島町 | 谷氏館(友定城) 友定町 | 香庄館 香庄 |
沖島坊谷城 沖島町 | 長光寺(瓶割城) 長光寺町 | 金剛寺城 慈恩寺 |
長田城 長田町 | 西宿城 西宿町 | 常楽寺城(木村城) 常楽寺 |
小田城(高畠氏館) 小田町 | 野村城 野村町 | 平井館 下豊浦 |
北津田城 北津田町 | 船木城 船木町 | |
北之庄城 北之庄 | 本郷城(久里城) 金剛寺町 |
八幡山城(近江八幡市宮内町) 標高271m
安土城の焼失から3年後、天正13年(1585年)に、18歳にして近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)が築城した城が八幡山城です。後背部は 津田内湖(昭和46年干拓)、東には西の湖(ラムサール条約登録湿地)が広がっています。本丸、二の丸、北の丸、出丸からなる城郭を持ち、南側の山麓には 城主「豊臣秀次」の居館や重臣達の邸宅があったとされ、中世の城の形態である山城の形を取る最後の城として歴史的価値が高いとされています。築城に当た っては、安土城下の町や社寺の一部を移し、新しいまちづくりが進められました。
築城から5年後(1590年)、秀次は100万石を領し清州へ移封となり京極高次が城主となりましたが、1595年、秀次が自刃後に八幡山城は廃城(高次は大津城へ 移封)となりました。
八幡山城は長らく石垣を残すだけでしたが、村雲御所瑞龍寺が移築されロープウェーが整備されたことなどにより、多くの観光客が訪れる観光拠点になって います。
八幡山城の本格的な調査はこれまで行われてきませんでしたが、平成12年度からの本格的な調査では、豊臣秀次居館跡から金箔瓦の破片(約200点)などが出土 しています。
豊臣秀次(近江八幡市宮内町) 八幡公園
豊臣秀吉の姉(とも)の子。秀吉の養子となり関白職を継ぎましたが、後に秀頼が産まれ、後継者を巡る争いにより自害させられました。自由商業都市としての発展を目指して楽市楽座を施行、城の防御である八幡堀を琵琶湖とつなぎ、往来する船を寄港させるなど、秀次はわずか5年の八幡山城在城の間に、商いのまちとしての繁栄の基盤を築きました。
若くして悲運の最期を遂げた秀次ですが、近江八幡の開町の祖として市民に慕われており、彼の功績を偲んで八幡公園には開町の祖・秀次の銅像が建てられています。
村雲御所瑞龍寺(近江八幡市宮内町) 八幡山頂
開山は、高野山で自害させられた豊臣秀次の菩提を弔うため、生母である「とも」(瑞龍 院日秀尼公)が後陽成天皇より京都の村雲(堀川今出川)の地を与えられたことに始まる日蓮宗唯一の門跡寺院です。当地は豊臣秀次が八幡山城を築いた地ですが、昭和36年に京都より当地に移築され現在に至っています。山頂からは、琵琶湖、水郷、町並みなどが眺望できます。
水茎岡山城(近江八幡市牧町) 187m
当地域は万葉集にも謳われる景勝地で古くから多くの人々を魅了してきたところです。
室町幕府の将軍争いにより、都を後にした11代将軍の足利義澄(よしずみ)が地方の武士であった九里浄椿(くのりじょうちん)に助けを求めたことから、当地に城が築かれることになりました。
現在は干拓され陸続きとなっていますが、以前は周囲が湖に囲まれていたため浮城でした。琵琶湖を知り尽くした彼らは、数に勝る幕府軍の攻撃を撃退し、逆に京都へ攻め上がる計画を立てていましたが、義澄の急逝などの不運もあり和議を結びましたが、後に、奇襲攻撃に遭い篭城の末、落城しました。
命を救われた九里でしたが、落城から2年後、当地で生れた亀王丸(足利義晴「よしはる」)が12代の将軍に就いたことを知り、思い残すことはないと自刃しました。
将軍に忠誠を誓い戦国の世に散った悲運の武士の舞台となった岡山城は、歴史的にはわずか13年の短い城でした。昭和57年に地元有志により供養塔などが設置されました。
長光寺城 (近江八幡市長光寺町) 標高234m
長光寺城のあった長光寺山は、別名、瓶割山と呼ばれています。この由来は、織田信長の命により配されていた柴田勝家が、近江の守護「佐々木」の軍勢に包囲され籠城策を取った際の逸話によるものです。籠城が長引くにつれ、貯蔵している水も残りわずかとなり、このままでは落城も時間の問題と思われたが、柴田勝家は、座して死すよりも将兵の士気を鼓舞し勝利を収めるため、残りの水を将兵に飲ませた後、その水瓶を自ら割って必勝を期し勝利を得たという武勇伝から瓶割城とも言われるようになったと伝えられています。
長光寺城は、応仁の乱に際して佐々木氏も東軍と西軍に分かれ、長光寺城と観音寺城を互いの居城として戦いを繰り広げたところです。佐々木氏は最終的には織田信長により攻略され、安土城の完成とともにその役割を負え自然廃城になったようです。
又、この山より産出される良質の花崗岩の石材により石工の名匠が誕生したことでも知られ、大阪城、聚楽第、方広寺大仏殿、三条大橋、江戸城、名古屋城、彦根城などを手懸けたとされる「馬渕石工」「岩倉石工」が桃山時代から江戸時代初期に全国で活躍しました。
安土城 (近江八幡市安土町下豊浦) 標高198m
本来、「城」は土塁などで築かれた砦のようなものでしたが、今日、我々が「城」としてイメージする「姫路城」「大阪城」は近世のものであり、その先駆けとなったのは織田信長が築いた「安土城」です。
安土城は、築城開始からわずか10年で焼失したため記録も少なく、その全容はいまだ謎の部分も多く残されていますが、昭和15年に初めての発掘調査が行われた後、平成元年から20年をかけての石垣の修理、続いて、令和の調査が継続中で、全国各地から技術集団を集めた時代の最先端の城であった「安土城」の様子が明らかにされています。
なお、安土城大手道から南東約500mにある「信長の館」には、1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大の安土城天主(5、6階部分)が展示されています。
観音寺城 (近江八幡市安土町石寺) 標高432m
観音寺城は繖山(きぬがさやま)一帯に築かれた山城で、近江源氏・佐々木六角の居城でした。山中には至る所に石垣が見られ、高石垣や排水用の暗渠や排水枡の存在など技術の高さは目を見張るものがあります。又、誰もが自由に商いを行うことが出来る「楽市楽座」を始めたのもこの地が最初になります。
歴史的にも価値の高い「観音寺城」の本格的な調査環境整備に向けて、滋賀県により基本計画の策定が進められています。
佐々木六角について
*近江の歴史には必ず名前の出てくる佐々木氏は、宇多天皇の皇子・敦実親王が佐々木荘を本拠として佐々木氏を名乗ったことから始まります。源頼朝が挙兵した際に鎌倉幕府の創設に貢献し、近江国を領しました。その後、大原、高島、六角、京極、などに分家しましたが、近江国を二分する形で領有した六角氏と京極氏は、互いに戦いを繰り広げることになります。
なお、昭和29年に公募により判定された近江八幡市の市章は、佐々木六角に由来する六角と八幡の「八」を平和のシンボル鳩の形に置かれたものです。
淡海の城・滋賀県中近世城郭分布図(滋賀県教育委会)、琵琶湖の浮き城(成沢邦正)、ふるさと観光塾資料(観光ガイド協会)、近江八幡市広報、滋賀県庁HP